『小鳥屋ののりちゃん』

先日、さくらももこ先生の訃報を目にし、たいへんな衝撃を受けた。あまりにも若くして亡くなられたから。

 

ちびまる子ちゃんの漫画は全巻持っていて、小さい頃からずっと読んでいた。(…アニメも小さい頃見ていたはずだがそちらはあまり覚えていない。)

 

私の中で、ちびまる子ちゃんと聞いて1番先に思い出すのは単行本9巻の末に収録されている「小鳥屋ののりちゃん」だ。

長らく読んでいないと、内容もおぼろげになっていくものだがこの話はいつも頭のどこか片隅にある。

(ここから先、特にストーリーの説明はしないのでもし気になったら是非読んでみて下さい ^_^ )

 

巻末の短編は空気感の素敵なものが多い中、このお話はダントツだと思う。f:id:kibunsonouchi:20180829003242j:image

コマの外の本来は余白の部分にも絵が広がっている。(ちなみに全ページ柄が違う!コピペではない!)

小さい頃に気づいて感動したものだけど今見てもやっぱりすごいと思う。

 

こうしたコマ外の絵と内容と相まったノスタルジックな空気の中で全体的にのりちゃんの「さみしさ」というのがよく伝わってきてシンとした気持ちになる。さみしさ…たださみしい思いをした可哀想な子だと言うなら変な話どこにでもありそうなもの。しかしのりちゃんは違う。

 

このお話でのももこちゃんは5歳。のりちゃんもおそらくそれくらい。

のりちゃんは年相応にワガママである。(最ものりちゃん本人は「ワガママ」であることを強く否定するのだが…)

 

 

f:id:kibunsonouchi:20180829010616j:image

のりちゃんは自分の好きな人が自分の相手をしてくれなくなることにトラウマを持っている。(本当に相手をしてもらえなくなったのかも定かではない所だけど…)それ故、仲良くなったももこちゃんのお友達のとしえちゃんが登場した途端にのりちゃんは機嫌を悪くしてその場で帰ってしまう。「お友達のお友達」もどうも彼女にはダメみたい。

なっちゃん達に「私も入れて」とみんなで遊べるように声かけしてみるとか、そもそもとしえちゃんの時なんかは最初から決めつけずにまずは少し一緒に遊んでみるとか、自分の思い通りに行かないからってのりちゃんはワガママだ!と言えてしまうかもしれない。周りの人達の目線に立つと尚更。

 

しかし、こののりちゃんのような経験って実際にしたことはないだろうか?

ー 一緒に遊びたかった人が遊んでくれなかった!

ー 私の好きな友達が私じゃなくて他の人と遊んでる!

そういった思い通りに行かないことが重なってストレスになり、相手を思いやる余裕がなくなること。性格の差はあれど、子どもにはあるあるな話だと思う。

 

私自身も子供の時は恥ずかしながら、友達が自分の思ったような動きをしなかったことで怒り狂ったしワガママを言った。とてものりちゃんのことを言えた立場ではない(^^;)

子供の時…と言いつつ大人になった今でも友達が自分以外の人と遊んでいるのを見て妬いたり、思い通りに行かずにカッとしたり、「ワガママ」は残ったままだ。しかしこうして「ワガママなまま大人になってしまった」人がどれくらいいるものか。いるのかもしれないけど誰に相談出来ようか。

 

なっちゃんのばか」

 

このお話で1番好きな台詞だ。この一言に尽きるのだ。どうしようもないことへの怒り。

 

なっちゃんに村を焼かれたでも、恋人を取られたでも、絶交されたでも何をされたわけでもない。自分以外の人と遊ぶようになってしまった、ただそれだけ。

ただそれだけのことを丁寧に、大事に描写してくれるから、私の心の深いところに響いて共感出来る。

 

ちびまる子ちゃん自体が昭和の日本でまるちゃんを取り巻く日常の話。SFやファンタジーのように物理的に劇的な展開はなくほのぼのとした生活の様が描かれている。それなのに退屈することは全くない。それどころか心を動かされたり、ずっと頭の片隅に残ったりするのは「なんでもないこと」への繊細で丁寧な描写によるものだと私は思う。人々がなんでもないことだとスルーしてしまいそうなことを、さくらももこ先生は逃さない。

 

「小鳥屋ののりちゃん」のことだけツラツラと語ったけれど、他にもたくさん面白い単行本巻末の短編がある。本編が面白いことを前提として、個人的には本編以上に巻末の短編が好き(^_^)「アニメしか知らないよ!」という方には是非漫画の方も読んで頂きたい…!

 

 

最後に、さくら先生のご冥福をお祈り致します。