先日、歴代の手帳を整理していたら、『忘れてもらえないの歌』のけっこうな量の観劇メモを発掘した。2019年当時既にブログを開設していたのできっと記事にするつもりで一生懸命書いたのだろう。
かれこれ3年経った今、記事にします…笑
※誤字や語順等細かいところは直しますが、当時の手帳に書いてあることを「そのまま」載せます。
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○印象に残っている言葉
・「心が空っぽになると殴られても痛くない」
・「いつまで戦争と比べていなきゃいけないのか」
・「『死ぬよりマシだ』は本当に生きているのか」
○鬱展開
・あの苦しいEDから…バツン!と暗転したのが良かった。それくらい理不尽なのが良い。
・登場人物全員が正しい。でも、全員間違っている。明確な悪者がいない。ラストの解体業者だって生きる為に仕事をこなしているだけ。だから辛い。
・全てにおいてベストアンサーを導き出せない。彼らは意志のある人間であり、その趣くままに生きられる時代ではなかったから。
・死ぬよりも辛いこと。それでも死なないのは、生きられる保証がないから。
○あまりにも救いのない物語
・前半パートの高まっていく盛り上がりからの後半の徐々に下落していく動きが良い。下落の仕方が急ではない。段階を踏んで確実に。ある部分からもう救われるルートはない。落ちていくだけだとどこか諦めた気持ちで観てしまった。急に絶望に突き落とされる展開よりよっぽど残酷だ。
・観劇前と後で、イメージポスターの持つ印象がガラリと変わる。
・背景の演出が良かった。3時間30分にあれだけの情報が詰め込まれるってスゴイ。背景が作り出した雰囲気と、説明的になりすぎずに情報を投下してくれた役割は大きい。
・背景はその時代の東京の表立った部分。メディアに取り上げられ、教科書にも載るような。
・滝野の守ろうとしたものが無情に壊されていくことと裏腹に、東京が栄え、東京タワーまで完成している。対比が心にトドメを刺すような皮肉で良かった。
・滝野達のような出来事や人生は人知れずごまんとあったのだろう。
○麻子
・デパート屋上での「売春婦だから〜」のシーン、劇中で最も辛かった。
・ただの哀れみは人を傷つけるだけ。どんな人にも当たり前に尊厳があることを痛感させられた。
・女の弱さを表現したいあまり、「女」というものが美化されているのは個人的に好みじゃない。ある意味で淡々とその時代のその境遇の「女」「男」を描いていた印象。
・木竜麻生気になる…素晴らしい存在感。
○滝野亘がオソロシイ
・最後まで腹の内がよく分からなかった…はずだったのだが。
・滝野が本当にやりたかったことって??彼は目標のために自分を殺す、ある種の「強さ」を持った人。だからイナリが見た夢の滝野はあんなよく分からん床屋のイメージに??(←側にいる人ですら彼の心の内を読み取れない。)
・あの乾いた笑いがトラウマになりそう。滝野は辛い目に遭った時ほど「笑う」から。
・あまりにも弱音を吐かない!
・ED中に彼が流した涙は本物だろう…楽しみにしていた書き下ろし曲なのに、辛すぎて頭に入ってこなかった(あたしってほんとバカ)
○安田章大
・背中。肩幅が立派なのでしっかりした背中だと思った。でも大きな背中と思っていたら、途端に小さく、あまりにも小さな背中と思えたシーンもあった。劇中の無力感はヤスくんだから出せたものでは。
・建物が壊される中1人歌うシーン(ED)!ただただ「美しい」と1番に思った。美しさに気づいたら涙が出ていた。と思ったら滝野も泣いていて絞り出すように歌っていた。演技と分かっていてもヤスくんがあんなに辛そうに背中を丸めて歌っている姿は見ていて胸が張り裂ける思いだった。
・何だって生きるのヘタクソな幸の薄い役がハマってしまうのか。改めて、彼の出す空気感がフシギ。
・身体の芯に染み渡り、温めてくれる歌声が好き。
・CDやTVよりも、生で聴けることに喜びを感じる。
・口や顔で喋るのではない、全身で喋っている。その上で表情か豊か。
・変幻自在。今までに見てきたどのヤスくんも素敵だし、これからどうなっていくのか全く予想もつかなくて楽しみ。
・表現したいものを表現できること、ヤスくんにとっての幸せなことが沢山起こることを微力ながら祈っている。
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当時のメモは以上になります。
久しぶりに振り返ってみて、改めて今も頷けるものばかり。流石に言葉の端端までは忘れてしまっていたものも、メモを見ると鮮やかに記憶が蘇ってくる。最初に書いた、名言なんて特に。
突き詰められた「つらさ」のある作品だったよね。
実のところ、当時はこの作品について記事にしたくてもできなかったのだと思う。つらさがキャパを超えて、目を背けて蓋をしてしまったのだと思う。ふんわりと表面的に思い出すことはしても、詳細を掘り下げて感想を書くことから逃げてしまっていた。
何せ観劇後の私と言えば…狂ったように泣き続けた。EDでひとしきり泣いで退場した後、劇場近くのお店にお土産を買いに行った際も涙が溢れ出てしまって。誰も見ちゃいないとは思うけど、さぞかし変な人だったであろう。それに飽き足らず、観劇から2日経って空港の搭乗待合室で座っていた際にも大量の涙が溢れ出て止まらなくなった。泣きたくて泣いているわけじゃない。ちょっとやそっとの時間が解決してくれないくらいの衝撃とつらさだったのだ。
何がそんなにつらいかって…メモにも書いていた、デパート屋上の麻子とEDの滝野亘だ。この2シーンは今に至るまで何度も頭に浮かび思い出された。麻子の去り際の叫ぶような歌声は今でも覚えている。歌いながらしゃくり上げる滝野の姿も……。
この作品のこういうところを教訓にして〜とか、この作品から元気をもらって糧にして〜とか、そういう次元ではない。
忘れられるものか。
タイトルの「忘れてもらえない」という言葉。耳馴染みがなく、ちゃんと覚えられるまで私は少々時間を要した。観劇するまでは、なんだか切ない雰囲気の言葉だ〜くらいにしか思っていなかった。
作品を通してその言葉の意味を理解する。良い音楽を、良いものを作ってもそれを世に出す機会すら得られない。人々に知ってもらうことができなければ忘れてもらうことすらもできない…。
ものを作る上での「売れない」という概念は分かる。しかし、そのスタートラインにすら立つことができない人達がいたのだ。違う、本来はそのスタートラインに立つこと自体が当たり前ではなく難しいことだったのだ。作品を通して、まさに弱肉強食な戦後の昭和の厳しさを痛感させられた。しかし、それは決して過去の話なんかではない。
コロナ。行動制限。感染拡大。
日の目を見ることがなく、人々に忘れてもらうことさえ叶わないエンタメ作品がたくさん出てしまった。勿論、私はそれらのほんの少しも把握しきれていないだろう…。
これは『閃光ばなし』のパンフレット内の福原さんと安田さんの対談の中で触れられている。むしろ福原さんが「(忘れ歌の後)こんなに"忘れてもらえない舞台"がいっぱい出てくるとは思わなかった」とおっしゃっているのを見て、ハッと気付かされた具合だ。もちろん戦後の昭和とは全く違えど、今も今でいかに厳しく悲しい時代なのかと胸が痛くなった。
『閃光ばなし』も、あと少しのところで大千穐楽が中止になった。演者さんやスタッフさん達、作り手の悔しさや無念は計り知れず、下手に想像することができない。その大千穐楽に全てをかけて、観劇予定だった人たちにとっては『閃光ばなし』は忘れてもらえない舞台になってしまったわけだ。悲しすぎる。誰も悪くないのだから。
これは個人の考えだけど、世間的に「元の生活に戻ろうよ」とコロナ対策の存在感が薄れていく中、大千穐楽の中止という大きな決断をしたことは英断だと思っている。感染対策のガイドラインにしてもとてもしっかりとしていて、劇場内ではある程度の信頼感を持って臨めた。
それだけ、コロナによる混乱でエンタメ業界への風当たりが強かったことを想像すると胸が痛くなるし、せめて心の中だけでも応援したい気持ちが強くなる。
観劇後、劇場内を退場中に近くの女の子達の会話が耳に入った。「とにかくヤスくんには幸せに歌っていてほしいよ」と。勝手に激しく頷いた(心の中で)。
何を隠そう、2019年秋…錦戸亮ちゃんが関ジャニ∞を脱退し、ジャニーズを退所してまだ随分と日が浅かった。コロナ前とは言え、ファンにとっては正直心穏やかではない時期だったと思う。また作品の内容が内容だっただけに…笑 そんなこと達もとても懐かしい。
衝撃的で、正直言ってトラウマで、楽しくて、悲しくて、つらくて、大好きな作品です。
『忘れてもらえないの歌』
上演から3年経った今、改めて観劇できたことに沢山の感謝をしたいです。
こうして記事にできたことも良かったと思います。
ありがとうございます!!!